掲載の記事は、週刊朝日(朝日新聞社)2006年3月17日号に掲載されたものです。
医療シリーズ 歯 を 抜 か な い 保 存 的 矯 正

歯並びやかみ合わせは全身の健康にも大きく影響するため、生涯にわた

る歯と全身の健康を視野に入れた治療が求められている。そこで注目を

集めているのが歯の保存に重点を置いた歯科矯正治療「床矯正」である。

この治療について、床矯正研究会主幹の鈴木設矢先生に解説していただ

いた。

鈴木設矢

現在の歯科治療

20世紀までの歯科治療は「歯の痛みからの解放」「歯の形態回復」の時代でした。21世紀の歯科治療は「歯の疾患の予防」「機能の回復」に変革しつつあります。
 歯科治療の対象が歯だけではなく、全身の生体バランスも考えるべきということから、今年日本歯科大学歯学部は生命歯学部に改称されます。歯科矯正においても治療目的を歯列不正の形態の改善だけではなく口腔機能発育学(東京医科歯科大学)、顎顔面育成学(鹿児島大学)として、機能と発育を治療の対象にしています。 歯列不正の原因は歯が正しく並ばないほど萎縮したあごや口腔機能不全にあります。形態の回復だけではなく、その原因からの治療が必要です。様子をみていても原因を改善しなければ症状は悪化します。
 口腔は歯だけのための器官ではありません。歯を使用する頻度より舌を使う時間の方が長いのです。口やあごの大きさは歯が14本並ぶ大きさが舌の活動スペースとしても必要です。口はいろいろな器官と協調運動をしています。歯は正しく使うことは他の器官も活性化することにつながります。かむことは発育期の子どもには発育刺激となり、協調する口腔機能を発育させます。また、噛むことで顎骨と顔面の表情筋も育成させます。正しくかめなければあごは萎縮したままです。
 萎縮したあごには二つの治療が必要です。
 一つめは咀嚼訓練によるバイオロジカル(生体療法)による機能の回復の治療です。かむ力や表情筋の機能の回復によりあごの発育が刺激され、表情筋の緊張により顔貌が改善されます。
 二つめは積極的にメカニカル(機械的)にあごを拡大し正しいあごの形態にすることです。口腔機能を改善し、顎顔面の育成を図ることが大切です。メカニカルにあごを拡大する方法として床矯正治療があります。

床矯正治療とは

 床矯正の床は「しょう」と読みます。床の意味は入れ歯を意味し、10本歯の入れ歯を1床10歯の入れ歯といいます。床矯正装置は入れ歯に類似した装置で矯正治療を行う装置です。そのために治療費用もリーズナブルです。
 床矯正装置は床を利用して歯を側方、前方、後方に移動すること、舌などの口腔機能を抑制、改善することの二つの異なった矯正治療を行うことを目的としています。
 床矯正治療では症状に合わせて使用する床装置の数が異なるので早期治療ならば装置の数は少なくてすみます。また、床矯正を取り入れている一般歯科医院の経営は一般歯科治療費でまかなわれており、矯正治療費のしめる経費率が低いため、患者さんの経済的負担が少ない矯正治療が可能になります。
 矯正は一般の辞書には、「欠点を治して、正しくすること」と記載されています。歯列不正を矯正することは、あご、歯列、機能の不調和から生じる欠点を正しくすることです。
 この不調和は大きく分けて四つあります。
1.歯と歯列の位置の不調和
2.歯の大きさとあごの大きさとの不調和
3.上下のあごの不調和
4.歯と機能の不調和
 患者さんや保護者の方が歯列不正に気づかれる理由の一つには、6歳前後に下あごの前歯が、7歳前後に上あごの前歯の永久歯が重なって生える矯正があります。国民の約20%にみられる歯列不正です。子どもの悪い歯並びは半分が叢生で、そのうち約70%は前歯にみられます。あごが小さいことは叢生になる原因の一つですから、咀嚼訓練により、あごを成長させるか、床装置で機械的に拡大すれば一つか二つの床装置で問題は解決します。東京歯科大学町田幸雄名誉教授(小児歯科学)は叢生が前歯にあれば、7~9歳ごろまでに矯正するのが効果的ですと述べています。放置をすれば犬歯の生えるスペースがなくなり、歯列不正の状態も複雑になり治療は複雑になります。 床矯正の治療目的は萎縮したあごを正しい大きさに戻すことです。萎縮したあごをそのまま様子をみていても治療回避です。本来の、正しく歯が並ぶあごに育成すべきです。
 歯が大きいから抜歯をしますと言われた場合は、実際に大きな歯なのかを測定してください。上あごのまん中の前歯(中切歯)の横幅を測ってみて下さい。男子では8.6ミリ、女子では8.2ミリが日本人の平均値です。9.5ミリ以上あると巨大歯と呼ばれる大きな歯です。
 中切歯の大きさが平均値の叢生ならばあごが萎縮していることになります。
 子どもは成長をします。生まれてから6歳までは、幼児期から子どもへの成長期です。6歳から10歳までは、よい子どもになるための充実期です。10歳から女子では14歳、男子では17歳までがよい大人になるための成長期です。成人になると歯並びを変えることはできますが、顔の骨格まで治すことはできません。子どもの時期に歯列を整え、正しく歯を機能させてあごの骨を発育させることが大切です。
 上下のあごの不調和である反対咬合などは顔の骨格に関与する歯列不正です。6歳、遅くても10歳までに治療を終了すべきです。早期に治療を開始すれば比較的簡単に治癒します。成長が終了してからの治療開始では反対咬合特有の下あごの飛び出た顔貌は外科的にあごを切るなどの処置になります。
 矯正治療では、歯の重なりを解消するためのスペースを作るために抜歯をすることがあります。成長が終了していない子どもではバイオロジカルな治療をもって歯に見合ったあごに成長させるか、メカニカルな治療をもってあごを拡大すれば歯を並べることができます。
 成人の場合は顎関節症などの誘因のために抜歯せざるをえないケースもあります。また、成人は成長が終了していますから、歯の重なりと抜歯をして得られるスペースが一致するならば、床矯正によりあごを拡大したりする治療期間と治療費用を考えて抜歯をすることもあります。
 抜歯をして得られるスペースよりも歯の重なりを解消するスペースのほうが小さい場合は、歯と歯の間にすき間ができて、このすき間を閉鎖するために口腔は狭くなります。
 床矯正治療では歯と歯の重なりを解消するだけです。あごを拡大するだけですから合理的な治療です。成長途上での抜歯はあごをさらに萎縮させ口腔のバランスを崩す危険性があります。あごの大きさは歯が並べばいいというものではありません。舌や口腔周囲の筋肉が正しく機能するためには歯が14本並ぶ口腔のスペースが必要です。
 よくかむことでいい顔を作ることができます。
 歯はかんで使うことが大切で、正しい大きさの口腔を維持して口腔機能を向上させることが大切です。かむことは咀嚼筋、表情筋を活性化します。前歯を使うことにより口輪筋が活性化されます。口輪筋が緊張しなければ口元が下垂し、上唇の人中が不明瞭になります。口輪筋に付着する表情筋も緊張せず目尻も下垂します。顔の表情をつくっているのは口輪筋です。よくかむことでいい顔をつくれるのです。
 骨格の成長が終了している成人であっても、顔の軟組織を活性化させることは可能です。口腔筋機能療法を行うことで口輪筋をトレーニングすると成人でも唇の形や厚みが変わります。  顔の表情は表情筋の緊張状態で大きく変わります。「いい顔をつくる」ことは「いい表情筋のバランスを保つ」ことです。そして口元が大切です。
 かむことは口元、ほおの筋肉を使うことです。また、かむことによって舌の筋肉も首の周囲の筋肉も使います。口元の口輪筋が活性化すると口輪筋に付着する表情筋も緊張して活性化されます。かむことによって表情筋を活性化させていい顔をつくります。
 口の周囲の筋肉を積極的にトレーニングすることによって口元だけではなく顔、首のさまざまな筋肉が協調運動により活性化します。歯科治療の一環として、口腔筋機能療法による口腔免疫を高めるトレーニング治療が行われています。口輪筋を活性化させるトレーニングで顔、頸部の皮膚表面はどのように変化するのかをみるために、サーモグラフィーで調べてみました。
 すると、3分間の口輪筋のトレーニングにより口の周囲だけでなく前頭部、目元、首元が活性化していることがわかりました。この状態は1時間から2時間持続しました。

床矯正治療の歴史

 近代の矯正装置は19世紀末にアメリカ人のアングルが考案した貴金属を使用した金属装置でした。第一次世界大戦の敗戦で戦勝国に賠償金を支払うためにドイツは経済不況にみまわれました。当時の首相ヒットラーは経済政策の一環として歯科医師が貴金属を治療に使用する事を禁止しました。そこで1935年、ウィーン在住のドイツ人の矯正医シュワルツが貴金属を使用しない床を使用した矯正装置を考案しました。その後イギリス人のアダムスが床を歯に維持させるバネを改良して現在の床矯正の形になりました。床矯正治療はその後、ヨーロッパ各国に広まりました。現在行われている抜歯によるワイヤー矯正の治療方法は1965年までヨーロッパでは行われていませんでした。

床矯正のメリットとデメリット

 抜歯による矯正方法では歯の重なりを解消するために確実にスペースができますが、抜歯をして得られるスペースと歯の重なりを解消するスペースが必ずしも一致しないデメリットがあります。床矯正治療は歯の重なりを解消するために必要なだけのスペースが得られるメリットがあります。4歳~10歳から矯正治療を開始すればあごや顔貌の成長も促せるメリットがあります。あごの成長が完了する以前の抜歯矯正はあごや顔が萎縮したままで、成長は期待できません。
 床矯正装置は入れ歯と類似した装置ですから、患者さんの都合により就学時、就業時に任意に装置を取り外すことができます。反面、床矯正治療は患者さんの治療に対する認識と協力が必要です。取り外せるために装置を紛失したり、装置を装着しないことにより、治療が進まないということがデメリットになります。1日に12時間以上の装置の装着は必要です。
 ワイヤー矯正は装置をつけたままなので、むし歯に侵されやすい口腔環境になりますが、床矯正装置は取り外して歯のブラッシングができますから、口腔環境を良好に保ちやすいメリットがあります。

床矯正治療の現場から

 上あご、下あごの片側だけを拡大すると対合する歯はかむ力が正常の場合はかむ力で移動します。歯の位置は設計図に基づいて並ぶのではありません。上あごの奥歯の凹部に下あごの奥歯の凸がかむ力で移動してその人に合ったかみ合わせができるのです。
 しかし、かむ力が弱い場合は前歯の重なりを解消するためにあごを拡大すると一時的に奥歯のかみ合わせが不良になります。治療中の一時的な現象です。床装置であごが拡大したのですから、かみ合わせが不良な歯に相当する床装置の床を削ればほおの筋肉で歯は正しい位置に戻ります。または、ほお側からスプリングやゴム、ワイヤーの力で歯を移動させてもかみ合わせは正常に戻ります。
 上の前歯が重なり側切歯の交差咬合だったある患者さんは、上あごの側方拡大装置とワイヤー装置の二つの装置で治療が終了しました。拡大後奥歯のかみ合わせが一時悪くなりましたが、ワイヤーを使って元通りのかみ合わせに戻すことができました。
 また、あごを拡大すると、あごが大きくなって『ゴリラ顔』になると心配される患者さんがいます。あごは本体部分の基底骨と歯を支えている歯槽骨の2種類の骨でできています。歯ができると歯槽骨ができ、歯が無くなると歯槽骨は吸収されます。
 歯槽骨は前歯の部分では5%しかありません。この5%の骨は拡大して移動しても成長期の子どもにとっては発育刺激にはなりますが、成人には影響はありません。

さまざまな不正咬合

1.叢生

 子どもの悪い歯並びは、半分が乱ぐい歯と呼ばれる叢生で、そのうち70%は前歯に見られます。犬歯間のスペースの発育不足で前歯が並びきれず叢生になるのが原因です。おとなの犬歯が出てくる前が治療開始の最適時期です。床装置を使用してあごを側方に拡大すればほとんどのケースが短時間で簡単に治療できます。


図1.早期治療が重要

図2.下あごの歯が上あごの歯に被っている

図3.上あごの前歯が飛び出している

図4.生活習慣から起こる場合が多い

図5.上下の歯をかみ合わせてもすきまができてしまう
 むし歯で乳臼歯を抜いてしまうと奥歯が前方に移動することがあります。また、歯並びの悪い前歯に合わせて犬歯は生えてきますから、犬歯が萌出するまで様子をみていると犬歯を移動するためにさらに奥歯を後方に移動するなど治療は複雑になります。なおかつ、歯は苦し紛れにいろいろな方向に生えざるをえませんから、歯軸を整えるためにワイヤーを使用するなど治療はますます複雑になります。
 上あごの二番目の側切歯が歯列の内側に生えると下の前歯と交差し、奥歯を横に動かすときに接触して正しいあごの動きがとれません。
 一番早く気が付くのが下あごの前歯の叢生です。早期に治療開始すれば早期に治ります。犬歯も正しい位置に生えます。〈図1〉

2.反対咬合

 子どもの反対咬合の多くは上あごの発育不足です。上あごの前歯を前方に移動して上あごの骨の発育を促します。反対咬合も犬歯の生える前に治療を終了すれば一つの装置で終了します。
 反対咬合が治癒したら前歯を使って上あごの発育を助長させます。身長が伸びる時は下あごも成長します。上あごが発育しないと、再び反対咬合に戻ることがあります。
 放置しておくと反対になったかみ合わせが助長されて、下あごが過成長をおこして成人になると、下あごを短縮するため、あご切りと呼ばれる外科的処置が必要になります。反対咬合はあご・顔貌に関わる一生の問題です。早期の治療が大切です。上あごの発育不足ですから、前歯のかみ合わせが治ったら前歯でかませることが大切です。〈図2〉

3.出っ歯・前突

 指しゃぶりなどで上あごの前歯を押し出す悪習慣で発症します。上あごの前歯をスプリングで後方に移動します。上あごが狭く前歯が飛び出したケースでは上あごを側方に拡大して前歯の入るスペースを作ります。〈図3〉

4.下あごの後退

 下あごを前方に誘導する床装置を使用します。
 奥かみや口をポカンと開いていたり、下あごをうしろに押しつけたりする悪習慣から発症します。下あごを前方に誘導する床装置を使用します。〈図4〉

5.開咬

 舌をかむ等の悪習慣でかみ合わせが開いてしまいます。骨が完成する前でしたら舌が歯列から必要以上に出ない習慣をつける床装置で開咬の原因である悪習慣を是正すれば治癒します。成人の場合はワイヤーで歯を移動します。〈図5〉