掲載の記事は、週刊朝日(朝日新聞社)2007年8月3日増大号に掲載されたものです。
医療シリーズ 歯 を 抜 か な い 保 存 的 矯 正

歯並び、かみ合わせは、体の健康にも大きく影響するため、歯列矯正は

早期に始めることが重要だ。しかし、一度削った歯や抜いた歯は戻らな

いため、歯科治療には生涯にわたる歯と体の健康を視野に入れた治療が

求められる。そうした中、保存的治療法で歯列矯正を行う床矯正は、多

くのメリットがあり期待を集めている。

なぜ、歯医者さんに行くのでしょうか

 歯が痛いから、歯がむし歯などで欠けたから、歯が抜けたから歯医者さんにいくのではないでしょうか。痛みからの解放、欠けた歯の修復が歯科医の仕事になっています。矯正治療でも患者さんは歯並びを「かたち」だけで見ていますがそれでいいのでしょうか。本来は歯はかむための器官です。歯並びの悪い状態を「歯列不正」と呼んで、歯並びの形態を表していますが、正常にかむ機能が営めない状態を「不正咬合(こうごう)」と表現します。「かたち」だけの歯並びではなく、正しくかむ機能ができる歯並びにする矯正治療が大切です。

矯正治療の目的

 歯と歯が重なっている歯並びはブラッシングでもなかなか汚れを落としづらく、プラークがたまりやすい環境では歯科の二大疾患であるむし歯や歯周病の原因となる状態です。これらの疾患の予防としてもよい口腔環境を作り、維持することは大切です。口の環境を正すためにも矯正治療は大切な治療です。
 矯正治療は不正を正しくする治療です。悪い歯並びを歯列の「かたち」という面だけからではなく歯の機能の面からも考えましょう。
 かむことは食べ物を粉砕し、唾液の分泌を促進して胃腸の消化機能を助けます。特に大切なことは、成長期の子どもにとってのかむ刺激が顎の発育刺激となることなのです。かむことはさまざまな筋肉を使い活性化させます。前歯でかぶりつくと口輪筋という口の周囲の筋肉を使います。顔の表情を表現する表情筋は口輪筋に付着していますから、前歯を使うことは口輪筋を活性化することで顔の表情筋をも活性化し、結果として表情のあるよい顔を作ることになります。悪い歯並びは何らかのかむ機能に障害をおこしていますから、歯列不正の治療には歯の機能回復にも注目すべきです。歯科医師の治療は歯並びの「かたち」を治すだけではなく、歯を機能することで、からだの代謝を促進させ、よりよい顔に育成することです。
 歯並びは見た目だけの問題でしょうか。歯や舌の機能の不正はどうなるのでしょうか。1回の食事で1000回かむと、1日3回の食事で約3000回かむことになります。かむときの上下の歯と歯が接触する時間は約0.1秒ですから、1日に歯と歯が接触する時間は300秒、5分間しか歯は使っていません。人は起きているときの3分の1は誰かとしゃべっているそうです。しゃべることは舌の運動を伴います。口腔で一番活動しているのは歯ではなく舌なのです。叢生(そうせい)と呼ばれる乱ぐい歯は顎の大きさと歯の大きさの総和(歯周長)とのスペースの差から生じます。叢生を改善するために、抜歯をする矯正治療は小さな顎に合わせる目的で歯周長と一致させようとします。成人の場合は顎の成長が完了していますが、成長が途中の子どもの場合は歯を抜くことで顎の発育が抑制されます。歯が並ばないという理由で上下4本の歯を抜くことは親不知(おやしらず)を除いて本来28本の歯が並ぶ口のスペースを24本のスペースにすることです。舌は狭くなった口のスペースで従来どおりの機能をすることになります。舌はのどにある舌骨(ぜっこつ)を通して下顎の骨、胸の骨、頭の骨に関連していますから、舌の運動機能の阻害は様々なからだの機能に影響を与えます。

歯列矯正は歯を抜かずに治療できないものか

 床矯正による治療法をご存知ですか。
 床矯正の床は「しょう」と発音し、入れ歯の意味です。10本歯のない人の入れ歯を「1床10歯」の入れ歯と表現します。床装置は治療目的に応じて顎を横に広げたり、歯を前方や後方に移動する優れた装置です。床装置は入れ歯に似た装置ですから患者さんが装置を自由に取り外せます。床装置は1日12時間から14時間の装着が必要ですが、装着する時間帯やネジを巻く条件は患者さんが任意に選択でき、幼児でも治療は可能です。
 床矯正の歴史は古く1936年にドイツの矯正医シュワルツが考案した矯正治療法です。床矯正は二つの治療目的があります。一つは歯が重なっている乱ぐい歯(叢生の歯)を移動することで顎を拡大して治療します。もう一つは舌をかんで前歯が開く開咬や下顎が後退するなどの口腔の悪習慣を是正し、悪い口腔機能から生じる歯列不正を治療します。
 拡大装置としての床矯正治療は床の部分が分割されたところにスクリューがついています。スクリューのネジを巻くことにより床が拡大することで歯を移動させ歯の並ぶのに必要なスペースを作ります。床矯正治療がすべてに優れているわけではありません。歯にブラケットを装着してワイヤーで移動するワイヤー矯正は3次元的に歯を移動できますが、床装置による歯の移動は2次元的な移動が中心です。複雑な歯列不正のケースでは床矯正装置で歯の並ぶスペースを作り、ワイヤーで歯を移動することもあります。
 日本人の40%は叢生の歯列不正です。叢生の70%は前歯に起こります。()6歳頃の時期に永久歯の前歯が重なって生えていれば、その歯並びが叢生です。前歯のかみ合わせにおいて上顎の前歯が下顎の前歯と反対にかんでいれば、反対咬合の歯列不正です。反対咬合は上顎が前後的に発育不足で萎縮しているので上顎の前歯が後退して反対咬合になります。
 叢生は顎を横方向に拡大することで前歯の並ぶスペースを確保できます。反対咬合は上顎の前歯を床装置で前方に押すことで前歯の噛み合わせは改善されます。前歯が突出している前突の場合は前歯を床装置で後退させます。開咬と呼ばれる歯列不正は、歯列より飛び出している前歯を歯列に並べる床装置で改善されます。早期の治療開始ならば、複雑な歯列不正は少なく、多くは単純な床装置で早期に治療が終了します。

)厚生労働省平成17年度歯科疾患実態調査より。
年齢に適した治療をしましょう

 子どもの顎は大人の顔の縮小ではありません。頭は脳を収めている部分(神経頭蓋)と顔を構成している部分(顔面頭蓋)があり、顔の70%は上顎(がく)骨です。かむことが顔を育成するという大切なことに、気付いていない親が多いように思います。よりよい顔の子どもに育成するには、かむことによる顔面頭蓋への発育刺激が必要です。そしてかむことは、かむ筋肉と顔の表情筋肉を活性化してよい顔を作ります。
 子どもは2度の発育期があります。1度目は生まれてから6歳の頃までが「幼児から子どもへの成長期」です。骨格に影響のある反対咬合の患者さんはこの時期に治療を開始するとよいでしょう。6歳から10歳までは外見では大きな成長の変化は少ないですが、内面では顎の関節や顔面頭蓋内部の副鼻腔の発育が促進する「いい子どもに成熟する時期」で、2度目の発育時期です。10歳までに不正歯列を治し、正しい歯列で正しいかむ機能により大人に成長することが望ましいと思います。自らのかむ刺激で顎を育成すべきです。身長が伸びるときに顎は成長します。成長期により良い発育刺激を顎に与えることが大切です。身長の伸びが止まると顎の成長も止まります。14歳の女の子は親御さんは子どもと思っていますが、医学的にはからだの成長を考えれば大人と同じです。
 顎が発育を完了する前に抜歯をすれば顎は正しく成長ができません。顎の成長を考慮した矯正治療が大切です。
 上顎骨が萎縮している子どもの反対咬合は早期に治療を終了させ、遅くても第2次の成長期の始まる10歳までに治療を終了するとよいでしょう。早期に前歯を正しいかみ合わせにして顔を構成している上顎の発育を促すべきです。歯科医師は歯列しか治すことができません。正しい前歯のかみ合わせが得られなければ、下顎が過成長をし「三日月様」の顔貌に成長します。子どもは成長しているのですから、何もせずに様子を見ていることは何も改善されず、治療放棄です。様子を見ていても歯列不正の原因の解決にはなりません。

前歯部の叢生は10歳までに治療を

 10歳以降には側方歯群と呼ばれる乳犬歯や乳臼歯が永久歯に生え替わります。この時期までに前歯部の叢生を治さないと、交換する犬歯は叢生である前歯を基準として生えてきますから、左右の臼歯部も歯列不正を発症しやすくなります。側方歯群が生える前に治療を開始すれば、歯列不正の治療対象は前歯部だけなので一つの装置か、多くても二つの装置で叢生は治療できます。叢生の前歯部を基準として犬歯が生えてくると、治療対象は前歯部だけではなく前歯部と左右の臼歯部の3ヵ所が治療対象となります。治療時間、治療費用も3倍必要となります。歯の生えるスペースが狭ければ歯は捻転して、治療はさらに複雑となり、ワイヤーによる歯の移動も必要となります。前歯の叢生は6歳から分かっていることです。簡単な歯列不正を放置し、治療を複雑にしたのは放置した結果です。

成人の床矯正

 顎の骨は顎の骨体でもある基底骨(きていこつ)と歯を支える歯槽骨(しそうこつ)と2種類の骨から構成されていますが、骨の構造は同じなのです。歯槽骨は歯が生えると出現し、歯がなくなると歯槽骨は減少していきます。歯のない赤ちゃんの顔と歯のないお年寄りの顔が似てくるのは、共に歯槽骨がないからです。発育期の子どものケースでは床矯正による拡大刺激による発育刺激が基底骨を変化させますが、成人は顎の成長をしませんから、成人のケースでは基底骨は変化せずに歯槽骨だけの歯の移動になります。前歯部の歯槽骨の占める骨量は10%以下、臼歯部でも30%以下ですから拡大治療により成人では基底骨が変化することはありません。顎を拡大処理すると「ゴリラ顔」になると心配される患者さんがいますが、正しい歯列の人は「ゴリラ顔」でしょうか。床矯正治療は萎縮した顎を正しく歯が並ぶことができる顎にもどしているだけです。
 成人は子どもとことなり歯を抜くことで顎の成長の抑制が起こりません。成人の矯正治療は歯槽骨内だけの移動です。成人矯正では歯の重なりと抜歯をすることで得られるスペースが一致すれば抜歯をすることも一考です。抜歯をすることで床装置で歯を移動する期間と治療費用は省略されます。
 多くの場合、抜歯をして得られるスペースは歯と顎の大きさの不調和と一致をせず、抜歯をして得られたスペースが大きいために歯列を縮小しなくてはならなくなります。歯列が縮小すると舌などの運動範囲がせばまり、口腔機能が阻害され、様々な問題を生じさせる原因ともなります。床矯正治療は必要なスペースだけを拡大できる利点があります。
 生まれつき前歯が大きい歯のケースだと床矯正治療で歯が並んでも、成人の顎は成長しませんから前歯が大きく見えることがあります(1番前の前歯・中切歯の平均値は男子で8.6㎜、女子で8.2㎜)。本来は個性なのですが、大きな前歯が気になる場合は歯の大きさを平均値に修正する治療が必要になります。子どものケースでは歯の大きさにあった顎に成長するためこのようなことはおこりません。
 矯正治療も様々な治療法がありますが、床矯正治療による治療法はかむ機能を阻害することなく矯正することができる治療法です。